おててサインの教室を開いている私のところには、子育て中のママがたくさん集まります。
おのずと子育てに関しての話がたくさん出てくるし、特によく話題にあがるのが、
「いい親ってどんなものなのでしょうね?」ってお話ですね。
先日、あるママがこんな風なことを話してくれました。
「いい親って料理が上手で、子供の遊びにもちゃんとつきあって、お風呂にも一緒に入ってくれて…
そういうものなのかなって…そういう行動を羅列されると、何も出来ていない気がして…
私は何かできないとすぐに子供を叱ってしまいますし、周りを気にしないで親と子供だけで考えたら、私はいい親なのかな?って考えてるんです。
子供はどう考えているんだろうなぁって?
子供から見ていい親ってどんなのかな?
外から見ていい親ってどんなのかな?
そんなことをいつも考えているんです。」
みなさんはどう思いますか?
子供からみていい親=いい親 なのかしら?
子供が良い子=子育てが上手=いい親 なんでしょうか?
う〜ん、難しいですよね。
「良い親」っていったいどんな親のことなんでしょう?
理想を言えばいろいろと出てくるんでしょうが、
私自身、二人の娘の子育て中で、理想を言われても絶対無理!って思ってしまいますね。
子供を叱り飛ばした夜、子供たちの寝顔を見て「かわいいな〜〜」って。
「ママはさぁ、本当に二人のことすっごく愛しているんだけど、わかんないかな〜?」って話しかけてます。
全然聞こえてないでしょうけれど(笑)
まだ結婚したばかりで、子供がいないときにアメリカに住んでいたのですが、そのときの経験は強烈です。
近所の教会で、本当に貧しくて生活環境が整っていない子供たちの面倒を見ていたことがありました。
親が麻薬に溺れて、仕事しないだけでなく、子供をなぐり、家族を殴り、食事もろくなものを与えられず、洗濯もしていない服を着せられて、アメリカではそんな子供達の救いの場所として、教会が働いているわけですけれど、私もそこでお手伝いをしていたんです。
日本では会った事のない、そんな環境にいる子供達をみて、全く反省の色もない投げやりな親達に対して憤りを感じていました。
この子達の幸せのためには、はやくこんな親達の元から離れたほうがいい、そのためにはこの子達を引き取ってもいいって考えたことがあります。
でも、子供たちはこんなにひどいめにあっていても、、何時間かたつと、お母さんやお父さんのところに帰りたくなる。
子供達の親に対する愛情や信頼はとっても強いんだと実感しました。
大きくなったらまた違うんでしょうけど、小さいうちはちょっとやそっとじゃ親のこと嫌いにならない。
あんなに強い愛情っていうのはありえない、ふつうでは、感覚的にも…。
アメリカでこんな経験をしたからか、、
日本に帰ってきて実際に自分で子育てするようになってから、またいろんな人たちに出会ってから、子育てについて色々と考えました。
日本に帰ってきたときに、ある子育て専門家(?)というか、どこかの大学の児童心理かなにかの専門家が、
「子供は叱らず、きちんと話して教える。だって、叱られるからといって、子供はウソをつくんです。子供に嫌われた親ほど悲しいものはない。
子供に嫌われたくなかったら、叱るのはやめたほうがよい。叱られた、ということは子供のトラウマにもなりかねない」というようなことをおっしゃっていました。
もちろん感情に任せて子供を叱りつけるのはよくないことですけど、子供にとっていい親でいたいから、だから叱らないでおこうっていうお話はちょっとナットクがいかない。。それに、トラウマになるかもしれないなんて言われたら、私は本当に叱らなくちゃいけないって思ってることでも叱れなくなっちゃう。なんだか絶対叱るなよ〜って脅されているような・・・(笑)
子供の親に対する愛情や信頼は簡単になくなるものではないし、嫌われたくないから、間違ったことをしても叱れないでいるっていうのは、そのことが悲しいなって感じました。
「私の母親は、自分のことを愛しているから叱ったんだな〜」って、成長したときに分かる子供に育ってほしいっていうのが私の願いかな。
本気で叱られてもわからない子っているんですよ。私の家に遊びに来ていた子で、なんどでも窓枠から乗り出すので、本気で叱ったんです。「登っちゃだめ!危ないでしょ、下に落ちたら大怪我しちゃうでしょ!」、本気で怒っても、「あ〜こわい〜」って言って笑っているだけ。 たぶん本気で大人に怒られたことがないのかな?って思う。
その子のためを思って本気で怒っているのに、その事が伝わらない、わからない子供がいることって、そのこと自体がこわいなって思いました。
だから子供のことを考えて叱るべき時は叱った方がいいと考えています。
お母さんがそういったことを考えている時点で、もうその子供は幸せだと思う。
子供を叩いてしまった後、悩んでいる親っているけど、その子供はたとえ叩かれていても、幸せだと思う。
さっきも話したけど、もっとひどい親をたくさん見ているから、そう思う。
もちろん、虐待する、っていうレベルはまた別の話ですし、不必要な体罰についてはきちんと対処していくべきですれけど。
叱る、叱らないの話ばかりしてしまいましたけれど、一番大事なのは子供への愛情の表現の仕方なんですよね。
たしかに料理がうまくて、いっしょにお風呂にはいってあげて、怒らなくて、そういうことをするのって素晴らしい行動での表現ですよね。
愛情を行動であらわすっていうのは大切なんだけど、それは愛情を行動で表しているから素晴らしいのであって、こんな行動をするといい親なんだって頭で考えて、突き詰めるとこういう行動をとっていれば良い親だと安心感を得られるからしているんだったら、
愛情から出た行動とは全然ちがうと思う。もちろん良い親になりたい理由は、子供たちに幸せになってもらいたいからだろうから、子供を愛していることに違いはないけれど、良い親かどうかを測るものさしとして行動を見る場合には、この違いはものすごく大きいと。
結局は、当たり前のことだけど、いろんな親が自分なりにどうやって子供に愛情を伝えるかっていう問題になってくると思う。
私も料理が得意ではないし(というより、子供が喜びそうば料理ができないんですね。)仕事が忙しくて一緒にお風呂に入れなかったり、公園で遊んであげれなかったり…でも小さなことでも、こどもと楽しめるときは楽しんだり、ちょっと時間が出来たときには本を読んであげたり、まぁ、あまりいろいろはしてあげられないんだけど、とにかく子供に愛情を伝えようと考えて、できることからやっていければいいかなって思うんです。
子供に言われたこと、ありますよ。 なんで他の子のママは、毎日幼稚園に来ているのに、ママは来ないの?とか、お仕事ばかりしているけれど、お家にいるママのほうがいいとか。
他のママと比べられたら、私なんて大した親じゃないのでどうしようもないけれど、こういう一つ一つの会話を通して、「ママは完璧じゃない、でも、あなたはママの宝物で、ママなりの精一杯で一緒の時間を過ごそうとしている」ことを伝えていきたいな、と思います。
結局、どうしてよい親になりたいのか・・・子供に幸せになってほしいから、ですよね。
でも、子供の人生が本当に幸せだったのかどうかって、順番どおりに行けば私たちは見届けることが出来ません。
だって、子供の人生の最後の瞬間にしかわからないんだもの。
私たちの人生だって、その死を迎える瞬間まで幸せだったのかどうかわからない。
それをしっかり心に刻んでおかないと、今私たちが親としてやっているすべての事に「よい結果」を求めてしまいかねません。
「良い結果」は「良い親の証」だと感じるからです。 「良い子」は「親が上手に育てているから」で、そうでなければ自分はよい親でないのではないかと不安になる。
でも、子供の人生は、私たちがこの世を去った後にも続いていくんです。
すべての結果を、この目で見ることが出来ないのが「子育て」なんですよね。
ちょっと話がそれてしまいましたけれど、何を子供にしてあげるのかということについて考えると、行動するっていうこと、何かができることだけに意味があるんじゃなくて、どうしてそういう行動をとったのか、何を伝えたいのか、どんな思いをもってやるかに意味があるんだと思う。
親が何をしてあげるかの話だけじゃなくて、子供が何をするのか、できるのかに対しても同じ話なんじゃないかしら?
ある何かができるかどうかって、そこのところだけで評価の点を置いてしまうと、何かが「出来る子」が「良い子」「優秀な子」だと勘違いして、
そういう子を育てることに子育ての意味を見出そうとしてしてしまうかもしれません。
実は私の娘は勉強が苦手。それもすっごく苦手です。勉強だけじゃなくて体育や音楽もあまりできないの。
その話をあるママに話していたら、「わが子のことをそんな風に言うなんて、ひどいわー」って言われたんです。
お手伝いは喜んでするし、学校も大好きな娘なので、「勉強が苦手」というのは特にひどいことを言っている意識がなかった私は、言われたコメントにびっくり。
勉強が苦手って、それだけならそんなに悪いことじゃないと私は思っているんです。だって人間得手不得手はあるでしょう?
それに「何か出来る」って、いろんな要素が絡み合って「出来る」ようになっているわけ。
私達ができることは才能とか、生まれた環境とかでひとそれぞれでしょう
ある人は他の人の10倍努力しないと出来ないかもしれない
でも10分の1しか出来なくても、精一杯どうやって生かしていくかをきちんとわかっている人は
やっぱり幸せを感謝しながら生きていけると思うんです。
聖書にこんな話があります。
『 さて、宮の中でのことです。 イエスは、金持ちたちが次々と献金箱にお金を投げ込む様子を見ておられました。そこへ貧しい身なりの末亡人がやって来て、十円玉を二個そっと投げ入れました。 それを見たイエスは「実のところ、この女は、だれよりも多くささげたのです。ほかの人たちはあり余る中からほんのわずかだけささげたのに、この女は乏しい中から持っている全部をささげたからです」と言われました。 ルカ21:1ー6 リビングバイブルより 』
沢山持っている人がその一部を捧げるよりも、乏しい人がそのすべてを捧げるほうが価値がある・・・目に見える結果だけじゃなくて、
与えられている才能や出来ることを、その人なりに生かしたいと願った人生を歩むことが出来ているのか、と考えさせられるお話ですね。
才能だけじゃなく、経済的にも、そのほかの理由でも、みんなが生まれたときに同じだけの能力やチャンスを与えられているわけじゃないもの。
不公平と言えば不公平な話ですよね。
だから、本来ならば、さっきの話のように与えられているものをどのように、どれだけ生かしていくのか、ということに評価の対象をおくべきなんだけど、
今の世の中のように「できる」ってことだけに評価をおくと、勝ち組だとか、負け組みとかっていう評価になってしまいがち。
そういう子育てっていうのはやめたいな、って思います。
だって、「出来る」ということに価値があるのだとしたら、極端な話ですが、その出来るという才能を悪いことにだって使えるわけでしょう?
自分が与えられた能力をどれだけ、どのように使っていくのかって、すごく大切な事ですよね。
「よい親かどうか」の評価に関しても同じなんじゃないでしょうか。「お料理が出来るからいい親」のように、行動や出来ることのみで親の良し悪しを評価されちゃうと、子育てが辛くなってしまう人も出てくるはず。あ、私もです(笑)
やってあげることはいいことだけど、環境だとか、親自身の得て不得手を考えたら、出来ないことだってある。
あの・・・私自身のことについて言えば、母親に向いていないタイプだと思います。結婚したときでも、周りの人が驚きのあまり絶句してしん・・・としたそうだから、結婚も子育ても向いているタイプではないなって、友人達も思っていたんですね。
それでも、こんな私でも子育てをしているんだから、虫のいい話だけど、できないことには許してもらおうかなって。
それで、子供が成長してからそのことを分かった上で許してくれないのなら、それこそ育て方を間違ったんだと深く反省しなくちゃいけませんね。これから先のことだから、どうなるんでしょう? 許してくれると良いなぁ。
一番身近な母親のいたらなさを許せたら、他の人に対してもゆるしの心を持てることが出来るようになると思いますね。
自分が完璧な親になって子供を幸せにしてあげるだけじゃなくて、至らない親だから学べることもあるんだよ、なんて
怠け者の子育てみたいなところもあるのが私の子育てスタイルですね(笑)
世の中色々な考え方や価値観があるけれど、少なくとも子育てに関しては、結果だけで評価するのはやめたい、私はそう思います。みんなにも共感してもらえたらうれしいな。
子育ては私も始めたばかり。皆さんと一緒にいろいろ考えて悩んで分かち合って行きたいですね。
子供が小さいときには小さいときなりの悩みがあるし、大きくなればなったで、また新しい悩みが生まれてくる。
そのたびにみんなで話していければ、その時には新しい発見もあるでしょうから、ずっとずっと一緒に母親として色々なことを考えていきたいと願っています。
2009.7 Mokoba
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